夢/幻/現:No.UNKNOWN
著者:月夜見幾望


 深い闇に落ちてゆくような感覚。手足の感触はなく、冷たくも熱くもない。
 自分一人だけが取り残されているような、でも不思議と孤独は感じない───そんな場所。
 死んでいった多くの人たちは、みんなこんな感じだったのかなあ……と漠然と思う。自分の中に蓄積されていた疲労や苦悩をすべて忘れられる……けど、やっぱりそこには何もなくて。おそらく時間という概念もないこの場所で、ただただ在り続けるだけなんだろうか。何も見えず、何も聞こえず、何も感じず。それはある意味安らぎなのだろうけど、そこには「意味」さえも存在しなくて。すべてが「無価値」に成り果てる───「死」とはそういうものなんじゃないか、と私は初めてそう思った。そして、恐らくは真衣(まい)───私の妹も……。
 でも、それならそれでいいんだ。永遠に感じられるくらい長かった道のりの果て、希望も見出せない現実から解放され、ようやく妹のいる場所に行けるのだから。あの時のことをきちんと謝って、もう一度仲良く一緒に過ごすことができるのならば、私は別に死んだって構わない。
 薄れゆく意識の中で、遠い遠い夢を見る。
 視界を支配していた暗闇がゆっくりと晴れていき、私の目の前に、とある映像が映し出された。
 
 


 
※   ※   ※   ※   ※
 
 



 どこまでも澄み渡った青空。光と影が美しい対比を描く森林の中、二人の女の子が楽しそうに遊んでいた。まだ小学校低学年くらいだろう。無邪気な笑顔はまるで真夏の太陽のように眩しくて、見ているほうも心が和むような微笑ましい一場面だった。
 
(あれは……)
 
 二人の遊んでいる場所には心当たりがあった。八王子市を囲む高尾山の麓、そこにちょっとした小さな洞穴があって、小学校の帰りによく寄り道して遊んだ記憶がある。そして、その場所のことは、ずっと妹と私の二人だけの秘密としてきた。
 
「この『秘密基地』のことは誰にも言っちゃ駄目だよ? 私と真衣だけの特別な場所なんだからね」
「うん! 約束するよ、お姉ちゃん。学校の友達には内緒にしておくよ」
「友達だけじゃなくて、パパとママにも、ね。パパにはバレても大丈夫だと思うけど、ママは頑固な所があるから。『そんな危ない場所で遊んじゃ駄目でしょ!!』って怒るに決まってるもん」
「あはは。お姉ちゃん、ママの物真似上手い! でも、ママはもっと鬼のような顔して言うよ」
「いくら私でも、あの顔だけは真似できないよ。だって、パパも時々『ママはほんとに怖いな……』って言うくらいだもんね。だからね、絶対に内緒だよ?」
「分かってるって。なんなら指きりしてもいいよ?」
「そう? それじゃあ……」

「「指きりげんまん、嘘ついたら針千本の〜ます。指きった♪」」

「よし! じゃあ、真衣。今日は向こうの森の奥まで行ってみよう。この前来た時、水が流れる音が聞こえたような気がしたの。もしかしたら小川があるかも」
「あ、待ってよ、お姉ちゃん。置いてかないで〜」
「あはは。ほら真衣、急げ! 晩御飯までには帰らないといけないからね」

 そうして、二人は仲良く手を繋ぎながら森の奥へと消えていった……。



(今の光景は……)

 たった数十秒の短い映像でも、答えは明確に示されていた。
 あれは私自身の記憶だ。それもまだ真衣が生きていた頃の。家族みんなで暮らしていた、あの毎日が楽しかった頃の。そして、もう二度と取り戻せない……心の中で最も輝いていた思い出だった。

 私の二つ下の妹───梅染真衣(うめぞめ まい)。私のことをいつも「お姉ちゃん」と呼んで慕ってくれた、とってもかわいい妹だった。普通の家庭では多少の姉妹喧嘩とかあるのかもしれないけど、私たちは洋服でも食べ物でも一度も取り合いをしたことがないくらい大の仲良しだった。そういうこともあって自然と真衣の面倒を見るのは姉である私の役目になり、母さんも「手がかからなくて助かるわ」と洩らしていたような気がする。
 当然のことなんだけど、私が小学校に入学した時、真衣はまだ幼稚園児だった。昼間の少しの間とはいえ、それぞれ別の場所で過ごさなくてはならない。まだ小さかった真衣には、それが嫌でしょうがなかったらしい。私の袖をぎゅっと掴んで、「お姉ちゃんと一緒に行く!」と言い張っていたのを覚えている。そういえば、ちょっと涙ぐんでもいたっけ。
 だから私はお使いの途中で偶然見つけたこの場所を二人だけの「秘密基地」とした。「待ち合わせ場所」と言い換えてもいいかもしれない。とにかく「なにか困ったことや悩み事があれば、ここに来なさい。お姉ちゃんはここで待っていてあげるから」と、そういう意味も込めて真衣を説得した。それで、真衣の機嫌が完全に直ったとは思えなかったけど、とりあえず涙を拭って「うん。分かった」と了承してくれた。
 それからは、ほとんど毎日この場所に通うようになった。雨の日も、風が強い日も、紅葉が見頃を迎えた日も、雪の降り積もった日も。学校の委員会の仕事とかで少し遅れてしまうこともあったけど、そういう日は真衣が先に洞穴の中で草笛や「お花屋さんごっこ」をして遊んでいた。「いらっしゃいませ、おきゃくさま。どの花がお好きですか?」と、無邪気な笑顔で尋ねられた時には、私もつられて笑ってしまったっけ。
 積もった雪で雪だるまを作ったり、家からソリを持ってきて山のなだらかな斜面を滑ったり……そんな楽しい思い出がたくさん詰まった思い出の場所。
 だけど、あの関東を襲った集中豪雨の日……真衣はこの場所で帰らぬ人となってしまった。
 
 
 普段からニュースや気象情報を見ていなかった私たちは、その日もいつものように「秘密基地」に向かった。

「うわあ……。今日は風がすごく強いね、お姉ちゃん。なんだか飛ばされちゃいそう……」

 お昼頃まではよく晴れていた。それが夕方近くになって急に風が強くなってきたのだ。木々は変形の臨界点まで大きくしなり、ざわざわと不気味な悲鳴を上げていた。いや、今になって思えば、あれは悲鳴ではなく、私たち二人に「今日は嵐が来るから早く家に帰りなさい」という警告だったのかもしれない。空は分厚い雲に覆われ始めており、一瞬の閃光の後に続いて、遠くからガラガラ!という雷鳴まで聞こえていた。雷が苦手だった真衣は、私の手をこれでもかというほど強く握りしめていたと思う。

「そうだね……。今日は罠だけ確認して早めに帰ろっか」

 嵐の数日前、「秘密基地」近くの小川で魚の姿を確認した私たちは、辺りに落ちていた大きな石と家から持ち出してきた網を使って、魚を捕まえるための簡単な罠を仕掛けていた。別に本気で魚を捕ろうと思っていたわけじゃなく、罠にかかっていたらすぐに逃がしてやるつもりだった。
 横から吹く強風に体ごと持って行かれそうになりながらも仕掛けポイントにたどり着くと、案の定、数匹の魚が罠にかかって身動きが取れなくなっており、なんとか網から抜け出そうと必死にもがいていた。

「お姉ちゃん、やっぱりお魚さん可哀想だよ……。待っててね。真衣がすぐに助けてあげるから」

 そう言って、真衣が小川の中に足を踏み入れた時───悲劇は起きた。
 小川に着く直前から降り始めていた、本降りより少し弱い程度の雨が、急にバケツをひっくり返したような集中豪雨に変わったのだ。それに伴って、大して深くもなく、幅も狭い小川は見る見る内に水かさが増していき、上流からは山の急斜面で勢いのついた濁流が一気に押し寄せてきた。

「真衣、危ない!!」

 私は急いで真衣に駆け寄った。しかし、あと少しで手が届くというところで───



「お姉ちゃ……」



 私の視界から真衣の姿が消えた。濁流に呑みこまれた真衣は、成す術もなく下流へとすごい速さで流されていく。

「真衣!! 真衣─────!!!!!!」

 ピシャァァァァン!!

 必死の叫びも、雷鳴によってかき消されてしまう。気付けば、辺り一面大嵐になっていた。雨は様々な角度から私を襲い、暴風が濡れた体から急激に熱を奪っていく。轟々と渦巻く濁流は大岩さえも削り、あちこちで滝を形成していた。空はもはや呪いか何かかけられたのではないかと思うほど黒一色で塗りたくられ、時折閃光が膨れ上がると共に青白い雷撃の束が奔った。

「真衣───!!!……げほっ、げほっ!」

 私は妹の名を叫びながら、小川に沿って下流へと駆けたが、足場がぬかるんで滑りやすくなっていたことに加え、頻繁に水飛沫が飛んでくるため思うように進めなかった。
「助けなきゃ」───それ以外のことは頭になかった。姉として、あの子はなにがなんでも私は守らなくちゃ。子供の頃の私は、自然に挑むことへの怖さなど知らず、ただ胸の内側から込み上げる正義感のみに突き動かされ、前へ前へと足を動かし続けた。
 馬鹿なものだ、と思う。訓練を積んだ消防隊員でさえ、予期しないほどの自然災害だったと言うのに、自分の身の安全も考えず、ただ妹の救出のみに固執していた当時の私。その結果は明白で、私もしばらく歩く内に足をとられ、濁流の渦の中に呑みこまれた。
 そして次に目を覚ましたのは、どこかの病院のベッドの上だった。どうやら私は、奇跡的に消防の人に助けてもらったらしい。体にはいくつか外傷があったが、命に関わるほどのものではなく、数日安静にしていればすぐに退院できると担当医から聞かされた。

「あ、あの、真衣はどうなったんですか?」
「うん? 真衣とは?」
「私の妹です。二つ年下の。高尾山の麓で一緒に遊んでいて、それで私よりも先に流されてしまったんですけど……」
「ふむ……。え〜っと、君の名前は梅染瑠璃(うめぞめ るり)ちゃんだから、梅染真衣ちゃんだね。ちょっと待っててもらえるかな。今調べてくるから」
「あ、はい。お願いします……」

 担当医が去るのと同時に、父さんが入れ替わりに病室に入ってきた。その深刻そうな面持ちを見たとき、私はすでに気付いていたように思う。真衣とはもう二度と会うことはできないのだ……と。だけど、そのときの私はそのすべてを否定したくて。父さんが言葉を話す前に懸命に耳をふさいだ。脈打つ鼓動は張り裂けそうに速く激しくて、まるで自分が地獄の審判にかけられているような気分だった。
 そんな私の様子に、父さんも真実を言うのは躊躇ったに違いない。だけど、『嘘をついたとしてもなんの解決にもならない───瑠璃はしっかりと現実と向き合う必要がある』と考えてのことだろう。父さんは、無表情のまま静かに言った。




「瑠璃……。真衣は───死んだ」




 私が退院した直後、真衣の葬式が行われた。親戚の人たちも集まったが、私はその中に加わることができなかった。だって……。

「真衣が死んだのは、私のせいだから」

 あの時、小川に向かわず、すぐに引き返していたら! 小川に入ろうとする真衣を止めていれば! あと一瞬手を伸ばすのが早ければ!!───真衣は死なずに済んだかもしれないのに……。

「瑠璃! せっかく、あんたより一つ年上の従兄まで来てくれたんだから、少しくらい顔を出しなさい」

 階下から母さんの声が聞こえてきたけど、私は二階の自室で自分の罪に震えることしかできなかった。もう誰とも顔を会わせたくない……一人にしてほしい……できるなら、私もこのまま消えたい……。
 結局その晩はただただ泣いて気持ちを静めるのが精一杯だった。
 妹を失った私の生活はさらに悪化の一途をたどった。真衣が死んでから二度目の冬、父さんが勤めていた会社が倒産した。倒産した詳しい理由はよく知らないけど、ともかくそのせいで父さんと母さんが毎晩のように言い争っていたのは覚えている。近所の迷惑も考えないような怒声、お互い暴力こそ振るわなかったものの、代わりに食器類や家具が数多く犠牲になった。
両親の喧嘩の仲介役をしよう、なんて当時の私はまったく思わなかった。以前、真衣が母さんのことを冗談めかして「鬼のようだ」と言っていたが、まさにその通りで、母さんに限らず、父さんまでもが、まるで何かに取り憑かれたかのように……怖かったのだ。
 そんな崩壊した月日を重ねる中で、私の神経も次第に磨り減っていき、自分の生きる現実そのものが嫌になりつつあった。日々のストレスは溜まる一方、楽しさも面白さもない生活にうんざりしていた。そんな中、ある日突然父さんが自殺。どうやら大量に抱えていた借金を返済できなくなったことが動機らしいが、真衣の死と違って、その時の私にはどうでもよかった。
 

 ───また、私のすぐ近くの人が死んだ……。なんだ、これじゃあ、まるで死神みたいだな、私って。
 

 どうやら私の人生には「死」が付きまとっているみたいだ。
 そんな根拠もない下らない考えを簡単に信じ込むほど、私の心は正常ではなくなっていた。これは後に警察の調べで分かったことだが、父さんはぎりぎりの家計を支えるために、「裏」組織と手を組んでいたらしい。それもかなりヤバいことを企む連中と。
 父さんとその連中が具体的にどう関わっていたのかは知らない。けど、連中のほうから父さんを「研究」に引き込んだのは事実のようだ。
 そこまで聞かされた時、私の中でカチッとスイッチのような物が入った。
 

 ───私の現実がここまでおかしくなったのは、きっと、そいつらのせいだ。
 

 それから私の思考は、見えない組織に対してのみ向けられるようになった。
 そうだ、私も父さんも悪くない。悪いのは、父さんを悪事に引きずり込んだ奴らなのだ、と。父さんが勤めていた会社が潰れたのだって、そいつらが裏で手を回していたのに決まっている。
 心の奥底からじわじわと滲み出てくる、どす黒い炎を制御できず、私自身なにかに取り憑かれたかのようだった。でも、数日前の起伏のない生活よりは随分マシだ。少なくとも今は、憎むべき「敵」が明確に示されたのだから。
 
 

 奇しくも私はその「敵」と対峙することになった。
 あれは確か、中学三年生の秋───。いつものように学校からの帰り道を歩いていると、電柱に背を預けていた、白衣を纏った見知らぬ男に声をかけられた。

「君が、幸助(こうすけ)の娘───梅染瑠璃ちゃんだね?」

 その言葉に、ぴたっと足を止める。梅染幸助とは今は亡き私の父さんの名前だ。この男、父さんの知り合いなのか……?

「ああ、まだ自己紹介をしていなかったね。私の名は八尾邦人(やお くにひと)。君のお父さんとはちょっとした研究仲間でね。彼は我々の研究に必要不可欠な、とても優秀な人材だっただけに死んでしまうとは極めて遺憾だ……」

 そう言って、いかにも残念そうに首を横に振る謎の男。
 なんなの、こいつ……。全体的に台詞に芝居がかっているし、私に話しかけてきた意図も読めない。父さんの研究仲間というからには、かつての会社の同僚だろうか……。

「うん? その顔は、私が何者か測りかねているって表情だね。だが、そんなことは君が一番よく知っているはずだ。なぜなら私は、君の『最も憎むべき相手の一人』なのだからね」
「なっ!? じゃあ、お前が父さんを悪事に誘った連中の仲間……!?」
「悪事とは人聞きの悪いことを言う。私も、そしてもちろん君のお父さんも、極めて崇高な目的のために動いていたのだよ。それこそ、これまでまだ誰一人成し遂げたことのない神秘を、ね」
「神秘……?」
「そう。人類の究極目的の一つと言い換えてもいい。これまでの歴史で多くの人間がそれに挑み、そして叶わぬまま生涯を終えていった。だが、我々は違う。君のお父さんが協力を申し出てくれた時、我々はその問題に終止符を打つつもりだった。実際、研究も順調に成果を重ねていた。しかし、あと一歩というところで、幸助はこの世を去ってしまった……。我々の研究の中心人物、まさに『心臓』とも言える人材を失くしてしまったのだ。それまで築き上げてきた計画は途中で断念せざるを得なくなってしまった……。しかしね、上層部の話によると、幸助の娘───つまり、君のことだが。君がお父さんの代わりになれるかもしれない、という結論を出した。幸助が残した資料を解読し、我々と共に夢を叶えてくれる存在なのだ、と」
「な……なに…言ってるの?」

 話の内容についていけず、私は男から一歩後ずさった。
私を父さんと同じように、得体の知れない研究に引き込むつもりなのだろうか。そんなの、どんなに言葉を積まれても願い下げだ。

「まあ、君が我々を警戒する理由も分かる。しかし、気にはなるだろう? お父さんがどんな研究をしていたのか。私について来れば教えてやろう。なに、場所は八王子市(ここ)からそんなに遠くない」

 父さんのしていた研究……。人類の究極目的の一つ……。
 突然の「敵」との接触に、体の心拍数は上がり、喉がからからになる。でも、上手くいけば、奴らを潰す糸口が掴めるかもしれない───。
 私は唾を飲み込むと、静かに答えた。

「───いいわ。お前らの研究施設に行ってやろうじゃない」
「ふむ……。それでこそ幸助の娘だな」

 白衣の男───確か、八尾邦人と名乗っていたか───に連れて行かれた場所は、八王子市の外れ、山間の中にひっそりと佇む、古い西洋風の洋館だった。造りは、地方の学校や役所に時折見られるような擬洋風建築だろう。
 左右対称の外観。等間隔で並ぶ大きな窓。正面入口上部に造られたバルコニー。多種の木々が植えられた中庭。館の中央には一際目立つ、大きな塔屋が建てられている。
 かなり意外だった。研究施設というから、もっと大きな立派な建物だと思っていたのに。

「驚いたかね? ここは通称『招き館』と呼ばれている洋館でね。戦時中は、防空壕の役目を果たしていた建物さ。外観は普通の洋館だが、『地下』がかなり深くまで造られていてね。地面の下なら、どれだけ部屋を広くしても問題あるまい。まさに我々がひっそりと研究を行うには打ってつけの場所というわけだ。昭和初期当時、この館を立てた建築家には感謝せんとな」

 さあ、どうぞ中へ、と促され洋館の中に入る。灰色の絨毯の上を廊下に沿って、右に左に歩くうちに、とある扉の前に来た。

「ここだ。この館の地下深くに続く階段のある部屋は」

 男が扉を開けると、中は確かに階段部屋になっていて、幅の狭い階段が地下に向けて延びている。男の後に続いて階段を下りると、そこには館の外からは予想し得なかった光景が広がっていた。

「なに、ここ……」

 面積は有に館の半分以上は占めるだろう。それほど大きな部屋で、彼“ら”の研究は行われていた。全部で20人以上はいるだろうか。みな、八尾邦人と同じ白衣を身に付け、忙しそうに書類の整理をしたり、試験管を振ったり、最新型のパソコンに映し出された波形のようなものを熱心に眺めたりしている。映画とかで見かけるような大型の培養装置、マルチスクリーンに映し出される、奇妙な記号や数式の羅列。入ってきたときには気付かなかったが、入口には赤外線センサーも設置されていた。
 まるで、なにか極秘任務にでも当たっているかのような感じだった。

「ここが我々の自慢の研究施設だよ。最新の設備が揃っていて快適に、そして迅速に事を成すことができる。ただ、究極目的の達成には一分一秒でも時間が惜しいのでね。みんな、家には帰らず、寝泊りは地上───洋館の各部屋でしている。君のお父さんの部屋も、もちろん割り当てられていたのだが、幸助には家族のほうが大事だったらしい。毎回、ここと自宅を往復していたよ。きっと、君たち家族には研究のことを悟られたくなかったのだろう」

 八尾邦人は、一旦言葉を切ると、やれやれとため息をついた。

「……で、父さんは一体どんな研究をさせられていたの?」

 私は、核心をつく質問をした。

「ああ、君がここに来た目的はそれだったね。確か、向こうのデスクの引き出しに君のお父さんが書いた資料があったはずだ。少し待っていてくれるかな」

 そう言って、八尾邦人は引き出しの中から分厚い書類の束を取り出した。遠くからでも、細かい文字と図式らしきものがびっしり書き込まれているのが分かる。

「これが、我々の研究のすべてだよ」

 渡してくれた書類のタイトル───そこには『死者蘇生』の四文字が躍っていた。

「なっ!?」

 思わず、書類を落としてしまいそうになる。
 死者蘇生───それは確かに多くの人間が挑んできた究極目的かもしれない。けど、それは絶対にしてはいけない人道から外れた研究だ。そもそも、どんなことをしても人は決して生き返らない。
 そんな当たり前のこと、少し考えれば分かるだろうに、ここに集った人たちは何で叶わない願望をいつまでも夢見ているの……?
 予想だにしなかった彼らの命題(もくてき)に、一歩引く。

「しかし、幸助が加わってくれたことで我々の実験は完成の手前まで近づいたんだよ。……ああ、そういえば、なぜ君のお父さんが快く我々に手を貸してくれたのか、その理由を教えていなかったね。───簡単に言えば、君が原因なんだよ、梅染瑠璃ちゃん」
「どういう……こと?」
「君は幼い時に妹を亡くしているね。確か梅染真衣ちゃんだったか。君たち姉妹はとても仲が良かった。幸助から聞いたところによると、妹さんの面倒を見てあげるのはいつも姉である君の役目だったとか。それ故、妹さんを失った時に受けた精神的ダメージもかなりのものだったろう。それこそ、君以外の人間には決して分からないほどの損害だったに違いない。それ以来、君は自分の部屋に閉じこもることが多くなった。現実が嫌になってしょうがなかったのだろう。幸助は、そんな君を心配して、なんとか昔の笑顔を取り戻させたい、と常日頃から真剣に悩んでいたそうだ。そして、見つけた結論が、君の妹───真衣ちゃんをこの世に蘇らせることだった」
「そ……そんなこと、できるはずが……ない。真衣が死んだ時、確かに私は自分を責めた。どうして、あの時助けてやれなかったんだろうって。部屋に閉じこもるも多くなった。けど、それでもこれだけは分かる。───死者はどんなことをしても決して蘇らない。そして、それを試みること自体が愚行だ、と。父さんが……あの父さんが、こんな最悪の悪事に手を染めていたなんて嘘だ!!」

 怖くなって、私はそこから逃げ出した。

「ふふ。ああ、逃げるといい。だが、君はまたここに戻ってくるだろうがね」





※   ※   ※   ※   ※





 薄らと目を開ける。
 そこはいつもと変わらない堅固な牢室。無機質な壁に囲まれ、簡素なベッドが一つあるだけの殺風景な部屋。窓はなく、部屋全体はわずかに灯された蝋燭の明かりによって不気味な陰影を描いている。
 この窮屈な箱と外を繋ぐ唯一の扉には鉄格子のようなものがはめ込まれ、しっかりと施錠が施されている。
 ……どうやら、私はまだ生きているらしい。このとち狂った現実に。
 意識を失う前のことはほとんど覚えていない。寒風に熱を奪われながらも、必死で八王子市の住宅街まで逃げたのは覚えている。けど、そこで力尽きてしまった。遠くから、救急車の音が聞こえてたような気はするけど。

「はあ……。結局ふりだしに戻っただけ、か」

 あれ以来、奴らは頻繁に私の前に姿を現すようになった。
 今夜も、また来るのだろうか……。





───瑠璃は知る由もなかったが、数日後、彼女は従兄と顔を合わせることになる。
彼女を救い出してくれる救世主に……。



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